カンパリみかん

絵画と音楽とホメオパシーと放課後BBSHをつらつらと。基本は酔いどれ日記。

日本の伝統的音楽には本当に指揮者はいないのか?

「日本の伝統的音楽」

と大風呂敷を広げました・・・その一角を為す「箏曲三絃」と「雅楽」に限ります。

勿論、両方とも古典曲演奏の場合、ね。

 

指揮者がいない、

というよりかは誰かが指揮者を兼務しているんですよ。

 

箏曲三絃だと、

 

大人数での合奏の場合は中心になる演奏者が自ずと決まって、

そういうヒトはずらっと並んだ演奏者の真ん中にいる。

そのヒトの音を聞いて周囲は拍子をあわせる。

ときには曲の始まりをこの人が「・・・ヤ」とかけ声をかけたり軽く楽器をならしたりして知らせる。

他の演奏者はその拍子を読んで演奏を開始する。

 

雅楽だと、

 羯鼓が指揮者ポジションと言われている。

羯鼓がいない場合、

たとえばシンプルな三管仕立ての場合だとその役割は笙が担うと耳にしたことがある。

主旋律を担当するのは主に篳篥だけれども、

最終的に拍子を決めるのは笙である、と。

多くの場合笙は篳篥龍笛に先んじて次のフレーズに用いる音を鳴らしている。

音量=息をいれる量は1小節(のようなもの)のなかで多少があるので、

その音量の変化から他の管は拍子を感じる・・・はず。

 

どちらにしても、

誰かその集団の中心になるヒトに注目していて、

そのヒトの動作から次の一手を決断する、その連続。

 

所謂、西洋音楽の指揮者さんを見ていると、

その動作のなかにリズムを見いだして、

その着地点を演奏者は感じ取って演奏しているのがわかる

・・・文章にするのが難しいな。

 

ふわっ、って手を上げたら、

それが落ちてくるタイミングを計って音を出す。

 

誰か中心になるヒトの動きを見て、

その体の動き=呼吸から次のフレーズを編んでいく。

 

単に役割分担が違うだけで同じことをしてるんだよね。

 

 

福は内、鬼も内

Year2は他者との関係性をみつめる学年であると同時に、

第4チャクラとそれに関連する第4レベル=感情レベルのみを扱う学年です・・・と理解している。

 

感情とは喜怒哀楽の四文字熟語に現れているように心地のいいものも悪いものもあります。

 

カオスですよ。

********

せやけどさ、

ええもんだけ

あかんもんだけ

ってのは不健康ちゃう?

 

何をもって良い、悪いっていうのも難しいことやけど、

人間である以上はどう頑張っても光があれば影ができる仕組みからは逃れられへん。

 

それを、どっちかを見ぃひんようにするのは抑圧やし。

いつかそれは何らかのかたちで噴出するて、例えば病気とかでさ。

 

やから、

「福は内、鬼は外」

やのうて、

「福は内、鬼も内」

なん。

 

日本人の中におっても手ぇあげて発言するのが苦手な自分が、

前回のClass3の冒頭でこの言葉を思いついてシェアした。

丁度、Class3の最中に節分やったからね。

 

何よりもさきに、自分の中の「鬼」をちゃんと抱きしめたる。

 

やってさ、

その「鬼」てすんごいパワフルなんやで?

 

味方につけへん手ぇはあらへんよ?

 

そんで、

その「鬼」は「福」のすぐにきにおる。

 

にき、いうか一心同体や。

*********

自分の中の善なる要素=Higher Self

自分の中の悪なる要素=Lower Self

と解釈しています。

 

主導権は自分にあるんですよ。

 

それだけ。

 

にき=「側(そば)」って方言ね。

実際は「ねき」と「にき」の間くらいの発音。

 

 

 

 

ほこほこ

先輩方と出かけて来ました。

 

ワタクシ、かなりな引っ込み系なので滅多に外食はいたしません。

リサーチをかけて出かけましたとも↓

kuwanarocca.wixsite.com

 

2月限定のランチをいただきました。

食後のお茶として選ぶことが出来たスパイシーなお茶が美味しく、

販売していたものを購入してしまいました。

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「体温あげて免疫力アップでっせー」

「アユルヴェータに基づいた処方でいいですよー」

 

そういうふれこみです。

 

そういうのすっ飛ばして、

美味しかったのは自分に必要だったということかもしれません。

等価

17絃。

古曲には全く使わない楽器です。

歴史が浅い。

 

古曲を演奏することが多い環境なのであまり出番がありません。

なかなか上達しなくてもどかしいときもあります。

 

でも、好き。

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筝の、所謂ドレミ調絃は正直言って受け容れ難いです。

むしろ許せないレベルで嫌悪しているかも・・・そしてドレミ調絃の筝を弾く私はとても不機嫌そうらしいです、ええ、不機嫌ですとも。

 

なのに基本ドレミ調絃の17絃は全く問題がないです。

 

17絃がドレミ調絃を想定して作られたものなのかどうかは知りませんが、違和感がないです。

 

身内の演奏会や合奏練習会のときには17絃を弾くことがあります。

 

今、ちょうどそういう時期で、

直前の演奏会の曲をほったらかして弾いてしまうくらいに好きですよ。

 

三絃や筝よりも好きかもしれません。

 

あるいは、

自分のなかで出来ることが他のパートよりも少ないから開拓する楽しさがあるのかもしれません。

 

昨日できなかったことが今日はできていたり、

その逆だったり。

そういう変化がなつかしくて同時に新鮮なのかもしれません。

 

毎年恒例の演奏会でした。

出番は1曲。

何回目の参加かな・・・師匠になってからだから15回目くらい?

 

近年は京都マラソンと同じ日にあるので正直いろいろ不便。

会場は御苑の近くなので御苑駐車場に車を止めるのがいちばんいいのですが、

交通規制がかかるので御陵のコインパーキングに止めて地下鉄で移動しました。

今回はさ、筝だったかららくだけどこれが三絃だったらつらいな〜。

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今回の曲は調絃がイレギュラーで、Cからの平調子ではじまる曲でした。

さて出番、となって緞帳の裏で三絃との音合わせをしたとき、

筝の調絃がD(C♯だったかも)からの平調子になっていることが判明。

そのまま押し切れば三絃が最終的にEまであげなきゃいけない絃ができてしまう。

ただでさえ調絃かえの多い曲で不安定になりがちなのに、

そこへさらなる不安要素を投入するのは危険、ということで筝の調絃の取り直し。

随分と客席にはお待ちいただくことになりました。

 

信頼しきっていてチューナーを楽屋においていましたが、

こういうこともあるからチューナーと調絃替えの印をつけるための鉛筆は舞台までもっていかないといけないな、と思いました。

録音機

趣味×仕事の関係で録音機は不可欠です。

 

テープのレコーダにはじまり、

MDレコーダーを使っていたこともあったし、

手っ取り早くiPhoneを使うこともありました。

 

稽古や下合わせの記録のために使うことがほとんどでしたね。

 

今のスマホASUS ZenFone 2 Laser)で録音すると音が小さすぎてちょっと困っていました・・・大まかなことは分かります。

 

今の学校では「アートプロジェクト」が必須課題になっていて、

何かのアート作品の展示かパフォーマンスをすることが義務づけられています・・・それも評価の対象なのでやんないと究極、進級できない。

 

パフォーマンスでもアート作品の展示でもどっちでも来い!

な私ですが、

どっちかっていうと、楽器の演奏。

 

しかし、

私のやる楽器は基本、合奏が前提のものです。

 

勿論、独奏の曲はあっても、

合奏してナンボな音楽だと思うし、

それが面白いところだと思うし。

 

そこで、

あらかじめ合奏相手の演奏を録音していって、

本番ではそれにあわせて演奏しよう、ということになりました。

 

手持ちの機器の録音機能に不満があったのと、

このイベントのこともあったので新しい録音機器を投入することにしました。

 

それがこちら↓

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 ZOOMかTASCAMで迷いましたが、

色んな方のレビューを総合すると、

自分の音楽にはTASCAMの方が向いているらしいのでTASCAMにしました。

本体の様子はZOOMの方かわいかったですけどねー、色のバリエーションもあったし。

 

決め手は「重ね録り」ができる点です。

 

これなら、1回目の録音で龍笛さんを相手に自分が笙を吹いて、

重ね録りで筝を入れることが出来ます。

で、本番は篳篥を吹くの。

 

パフォーマンスは4月のクラスで行います。

録音レベルとか環境とかいろいろ考えないといけないことがありますので、

しばらくは龍笛さんにおつきあいいただいて録音大会です。 

 

 

 

 

 

どろどろ

代替医療の業界にいると、

 

この方は本当に善良な人なんだな

 

と感じることがしょっちゅうある。

 

そして同時に、

自分は同じ業界にいながらえらいどろどろしてるな、と自嘲気味にさえなる。

 

そう、

代替医療の業界に限らず、

色々なヒトとの関わりのなかで、

いかに自分が「どろどろ」しているか思い知らされては落ち込んだ。

 

多くのヒトはわざわざそこをついてくることはなかったけれども、

時折、

私の「どろどろ」をめざとく見つけては、

「どん!」

と目の前に置いてくれる親切なヒトもいた。

 

出来れば、

完全に「善良」でいられたらいいのだろうけれども、

それでは私の「どこどろ」を置き去りにすることになる。

 

「善良さを求める姿勢」も「どろどろ」も、

元々は誰のものでもなく私のもののはず。

 

ならば、

何故、それを善し悪しと断じて一方を見ないようにするのか?

 

果たして善良な自分だけが「本当」なのか?

 

そしてその「自分」はリアルなのか?

 

いや、

人間である以上はそのパーテンセージにこそ差異はあれ、

誰しもが「善良さ」と「どろどろ」を持ち合わせているはずなの。

 

善良さを「善良だ」と、

「どろどろ」をネガティブなものと断じて封印するのはその場しのぎとしては楽な方法。

 

でも、

そうでない行動の選択をしたときまた違う世界にまみえることになるのかもしれない。

それがこの世の面白さかな、とも思う。

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私のものに限らず「どろどろ」はとてもパワフル。

 

地球のコアにあるマグマのように。

 

その力は押し込め続けてておくなんて到底出来ないレベルの強さだから、

いつかは何らかのかたちで噴出する。

 

私は

破壊と背中合わせの創造がそこにはある、と知ることで少し安らぎを得た。

 

「善」「悪」どちらかだけで成り立つものはこの次元に存在しない。

でも、

悲しいかなそのどちらかに決めたくなるのが人間であるらしい。

 

「両方を手に持つことができる」

 

「選択することができる」

 

そういうのが私には心地いい。