立ち位置
英語を小さいうちから学ぶのも結構なことだと思う。
特に、
フォニクス式を知っていると単語をおぼえるのがとても楽。
受験英語の実用性ったらない、というのも実感です。
ちゃんと必要なコミュニケーションはできる。
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先の10月にアメリが合衆国の大学に編入して、
自分が結構な愛国者だったと思い知りました。
仕事や趣味、またその他で関わっている世界は所謂、the 日本なのですが、
日本ぽいものが好きだからそれらを始めたわけではなく、
自分が好きなものを選んだらこうなってしまっただけです。
いつの間にかそれらが私のアイデンテティーを支えてくれていたらしく、
海外でしばらく過ごすうちに自然に発生してきたのが、
「どうしたら日本を良くすることができるか」
という壮大な問いかけでした・・・自分のことで精一杯なのにね。
外国にいて特に差別的な扱いを受けたわけではありません。
むしろ皆友好的で親切でした。
でもやはり自分はどうしようもなく日本人なのだと思いました(「日本人」の定義はさておき)。
学校の授業は全て英語。
同級生や先生とのやりとりも英語です。
留学、ホームステイ経験どころか、
英会話スクールに通ったこともないし、
海外で行ったことがあるのは家族旅行のサイパン、香港、タイ。
学生時代は紙の上の英語で十分な時代でしたし、
大学の専攻も英語よりかは中国語の方が役に立ちそうな分野。
今のスクールでは受験英語だけを武器にコミュニケーションをとっています。
もっと同級生がストレスが少なく話せるくらいに私が聞き取れたらいいな、とは思うしそのために勉強を少ししてみてはいますが、卑屈になることは全くありません。
それは自分が日本人であることにある種の誇りをもっているからかもしれない、と思っています。
自分のアイデンテティーを大事に扱うのと同時に相手のそれも尊重する。
そこにはプライドとかエゴとか防衛は一切ありません。
不思議なことにそれらが入り込む余地がない。
コミュニケーションツールとしての英語を学ぶのはいつでもできると思います。
それよりも、
自分の立ち位置を明確にする方が先なのではないかと。
英語は便利な道具だけれども、
それを使うのは日本人の精神。
だから、
拙い英語でも伝わるんだと思います。
または、
理解しあおうという方向に向かうんです。
戦後70年、
所謂、日本的なものは学校現場で教えられる機会が少なかったように思います。
一般家庭でも、そう。
かくいう私も、
初めて「六段」を聞いたときには、どう解釈していいのかわかりませんでした。
確かに、
いかにもな日本の伝統文化の世界では難しい・・・かなり難しいことがたくさんあります。
そして、
それに打ち拉がれてその世界を去った人を何人もみてきました。
私は未だにその傷が癒えないし、
そういう部分に直面するとなんとも言えない感覚に陥ります。
でも、
結局、それらの経験も私のアイデンテティーを支えている。
物事は明暗の両面を持っています。
それがむしろ健康的なこの次元での在り方。
それをふまえた上で、
幼いころからの外国語の教育と同時にやることあるよね?
と思います。
どっちかだけではいけないのです。
両方、持たなきゃ。