カンパリみかん

絵画と音楽とホメオパシーと放課後BBSHをつらつらと。基本は酔いどれ日記。

どろどろ

代替医療の業界にいると、

 

この方は本当に善良な人なんだな

 

と感じることがしょっちゅうある。

 

そして同時に、

自分は同じ業界にいながらえらいどろどろしてるな、と自嘲気味にさえなる。

 

そう、

代替医療の業界に限らず、

色々なヒトとの関わりのなかで、

いかに自分が「どろどろ」しているか思い知らされては落ち込んだ。

 

多くのヒトはわざわざそこをついてくることはなかったけれども、

時折、

私の「どろどろ」をめざとく見つけては、

「どん!」

と目の前に置いてくれる親切なヒトもいた。

 

出来れば、

完全に「善良」でいられたらいいのだろうけれども、

それでは私の「どこどろ」を置き去りにすることになる。

 

「善良さを求める姿勢」も「どろどろ」も、

元々は誰のものでもなく私のもののはず。

 

ならば、

何故、それを善し悪しと断じて一方を見ないようにするのか?

 

果たして善良な自分だけが「本当」なのか?

 

そしてその「自分」はリアルなのか?

 

いや、

人間である以上はそのパーテンセージにこそ差異はあれ、

誰しもが「善良さ」と「どろどろ」を持ち合わせているはずなの。

 

善良さを「善良だ」と、

「どろどろ」をネガティブなものと断じて封印するのはその場しのぎとしては楽な方法。

 

でも、

そうでない行動の選択をしたときまた違う世界にまみえることになるのかもしれない。

それがこの世の面白さかな、とも思う。

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私のものに限らず「どろどろ」はとてもパワフル。

 

地球のコアにあるマグマのように。

 

その力は押し込め続けてておくなんて到底出来ないレベルの強さだから、

いつかは何らかのかたちで噴出する。

 

私は

破壊と背中合わせの創造がそこにはある、と知ることで少し安らぎを得た。

 

「善」「悪」どちらかだけで成り立つものはこの次元に存在しない。

でも、

悲しいかなそのどちらかに決めたくなるのが人間であるらしい。

 

「両方を手に持つことができる」

 

「選択することができる」

 

そういうのが私には心地いい。