自由に困る
午前中に学校で受けるように定められているセッション。
まだまだどうやって臨んだらいいのかわからないけれども、そこはのんびり行ってもいいみたい。
なにより自分のペースを尊重してくれるのが有り難い。
仕事にしろ音楽にしろ、
どうしても「合わせる」癖があるので、
「じゃあ、自由にしていいですよ」
と言われると逆に困る。
篳篥を吹いていても、
「そんなにこっち(龍笛)を気にしてくれなくていい、むしろ篳篥は ”自分はこうや!” くらいで行くものやで。」
と言われるしまつ・・・雙調の胡酒飲破、北庭楽、賀殿急の曲止めなんて龍笛さんが苦しそうなのが気になってさ~。
それは今迄のパターンとして、
今後はその「自分は何をしたいのか」をみつめる時期らしい。
そうそう、絵も「何が描きたい?」って言われても困る、特にないから。
箏曲三絃はあるよ、古曲のややこしいのを相棒とか先生とだけ演りたい、合わない合奏はストレス以外の何者でもないから。
いや~、それだけ私の古曲欲は強いんですな!
イコール、それは古曲愛!!
今日のセッションでも出たのがこれ。
「誰かのためにやっているものはありますか?」、と。
箏曲三絃がそれにあてはまる。
あえて特定の誰か、っていうと津田道子先生とか師匠、大先生になるけど、
この一群の曲を伝承してきた人たちのために、ってどこかで思っている。
自分の好き嫌いの範囲だけなら時折つきつけられた言葉に打ち拉がれて安きに流れていたかもね。
でも、これって本当に私の自由意志に基づくものだったのだろうか?
それすらも今はわからない。
組歌の弾きごたえは他のどの種類の曲にも勝る、ってのは間違いない体感ではあるが。