結局は、
久しぶりに山岸凉子さんの作品を読みました。
新作「レベレーションー告解ー」。
ジャンヌ・ダルクのお話。
山岸凉子さんの作品にはたびたび大きな衝撃を受けます。
それは他の漫画以外の作家さんも含めてこの方だけのこと。
高校生の時に「日出処天子」を読んで進路を決めました。
法学部か文学部歴史学科か迷っていて、文学部歴史学科にしたのです。
結局、古代史専攻ではなかったですが。
またまた、ハッとする台詞がありました。
1巻の最後の方に、
「神」の声を聞き、
王を助けるためにヴォークルールへ行くと村の教会の司祭さまに告解する場面があります。
そこでの司祭さまとジャンヌのやりとり。
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司祭:神の声やお姿を見たという者は 我々修道士の中にも過去に何人かいたのだよ しかしそうした者たちには共通した面がある ”逃げたい現実・・・”を持っていた!
~ジャンヌは逃げたい現実などなかった13歳のころからその「声」を聞いていたと訴える~
司祭:なるほど・・・ここで百歩譲っておまえが本当に見たし聞いたのだとして・・・
ジャンヌ:はい!司祭さま 本当です
司祭:それでも人はその”声”に心を囚われてはならないのだ わたしたちができることは神に祈りつづけること それだけなのだよ
~「神」の姿を見、声を聞けば、行けと言われていかずにはおれないと言うジャンヌを司祭は諭します~
司祭:真にその声を聞きそして真に見たとしても おまえはあまたある神の下僕・・・神の御使いの1人にすぎないのだ どこまでいってもおまえはドンレミ村のジャネッ・・・ジャンヌ・ダルクなのだということを忘れてはならない
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昨今は、見えざるものの「声」を聞いた、
「姿」を見た、と公に発言することが以前よりも受け容れられる状況になっています。
人間の知覚はあくまでも人間レベルのものであって、
高次の存在のそれがそうやすやすと分かりやすく入ってくるものなのかな?
それは本当に「高次の存在」なのか?
(よく、龍やら鳳凰やらが空の雲のかたちにみえる、って話を見聞きしますが、
そもそも人間ごときの目に見える状態のそういった神霊って弱っていて擬態ができていない、
という話を読んで、腑に落ちたことがあります。)
私たちはあくまでも人間であって、それをゆめ忘れてはならないのです。
「聞こえる」こと、「見える」ことが何かからの逃避であるなら、
本当に哀しいし、危険なこと。
肝に銘じたいと思います。
「レベレーションー啓示ー」